大人になっても思い出す、あの人の泣き顔

もう20年も前になる。泣いているあの人を思い出す。

私は9歳だった。泣いているあの人を前にして、その場に立っていることしかできなかった。子どもであることを悔やんだ。なんて頼りなく、無力なのだろうかと思った。私の肉体がそこに存在しているだけで、なんの意味も、価値も持たない気がした。“社会”という人々の集まりや、営みについてもっと知れていたら違う態度をとれたのではないかと、今でも悔い改める記憶である。

あの人は、継母の友人だった。彼女の名前は20年分の積みかさなった記憶に埋もれてひっぱり出せないので、名前はA子さんとする。

当時は兵庫県に住んでいて、A子さんはご近所に住む継母の友人だった。男の子の子供が2人いた。同じ小学校に通っていて一緒に登校する日もあったし、自宅近くの公園で遊んだりもした。

A子さんの長男は当時小6のスポーツ少年で、いわゆる美男子。学校では何かと目立つ存在。女子たちが陰で騒ぐようなタイプ。内心、わたしもそのうちの1人だったが、私は見向きもされないと、よく分かっていた。

彼がこちらにむける目線は、夏の暑さで傷みはじめた生ゴミを見るようだった。両親からの愛情を存分に注いでもらった、お姫さまのような可愛い同級生と相反する私は、誰からも必要とされず、むしろ早く消し去りたい邪魔者で、可燃ごみの日に早く運ばれるのを切望されている存在と同等だったのである。

ある時、A子さん宅にお邪魔をして手料理を振る舞ってもらった。でも、A子さんは料理が苦手なようだった。確か料理が苦手であるということを、継母に話しているのを何度か聞いていた。

A子さん、A子さんの子どもたち、継母、義理の兄、私でテーブルに向かって座る。やっといただきますのタイミングになったとき、継母がみそ汁に注目する。「味噌が溶けきらずに残っている」と騒ぐではないか。早く食べたい。

別にそのくらい大したことなのにと思いつつも、継母は待ってました!と言わんばかりに捉えあげ、固まりになった味噌に驚いたり、笑ったり、溶かし方まで教えている。大人同士のやりとりを座りながら、無言で眺める。仲裁に入る気も起きない。劣った一面があるA子さんに、継母は喜んでいるようにも見える。

そんなA子さんが泣いたのは、ある日、学校から帰宅して玄関の門をあけようとした時のこと。たまたまA子さんにばったり会った。私の顔をみて、泣きはじめた。入院したと聞いて心配したのだと。何かあったらいうんだよ、助けを求めてもいいんだよ、と言っていた。

ちょうどその1ヶ月か、何週間か前にウイルス性胃腸炎とインフルエンザの両方にかかり、生死の境をさまよいかけ10日間ほどの入院をしたばかりだった。

入院生活は幸せだった。贅沢な個室入院。小さいけれどテレビを独り占め。プリペイドカードを差せば自由に見れる。売店に行ってプッチンプリンが買える。たった100円程度のプリンでも贅沢なおやつであったし、継母の顔色を気にせずに食べられる状況がこの上なく嬉しかった。継母の機嫌に怯える必要もなく、理不尽な怒りをぶつけられもせず、不意打ちな鉄拳も平手もこない。なんて自由なんだ。入院生活を伸ばしたい。治ったら困る。カプセルの中身を洗面所の排水口に流していたのは、ここだけの秘密にしておきたい。

きっとA子さんは私と継母の関わりを日頃からみて、察したのだろうなと思った。あるいは、ところどころにできた傷やアザをみて異変を感じとっていたのかもしれない。私のために泣いてくれる人がいるんだ。それに対して喜びを表現するべきだろうけど、正直なところ嬉しくはなかった。珍しい人もいるのだと思った。

でも、20年経って当時を思い出すと、なんて有難い出来事だったのだろうなと思う。他人の子どもに、特別可愛らしくもないのに、救済の手を差し伸べようとしたのだ彼女は。あの時、感謝の言葉をうまく伝えられる語彙力が私にあればよかったのに。なんと返事をしたらいいのか分からず、私はなにも言えなかった。

もし今の私が、泣いているA子さんのもとにいけるなら、後日改めて菓子折りを持っていくくらいのことはするだろうか。いや、やりすぎだろうか。

そういえば、隣のお家に不幸があった日。部外者が無理に関わるのも迷惑だろう。そっとしておいてやるのが1番だろうに、継母から「何かできることがあったら言ってください」と言ってこいと命令され、無理やりインターホンを押した。新撰組の局中法度のように従わなければ切腹、くらいの圧力だった。一体、何がしたかったんだろう。不幸があった人に対して、同情心を持て。他人を気にかける人になれ、ということなのか。9歳にそれは無理ではないか。


泣いているA子さんを慰める言葉さえ、見つからないのだから。