かがんで靴紐を結んで立ち上がると、生まれて初めての光景がそこにあった

シュトレンの材料を買い忘れちゃった。駆け足で玄関から飛び出し、かがんで靴紐を結んで立ち上がると、生まれて初めての光景がそこにあった。

 

生まれて初めての”それ”は、ちょうど高い建物との間にある雲ひとつない黒い空に、なんの前触れもなく現れたエメラルドグリーン色の光。激しく生きて散っていく。圧縮した生命の一生を示すように、燃え盛りながら斜めに落ちてぼうっと消えていった秒針が2回傾くくらいの出来事。光の中心は明るく、周りに淡い緑色の光が包み込んでいた。

 

かがんで立ち上がった瞬間に都合よく”それ”が現れたので、私はその光に対してなんらかの意味があるような気がして、何事もなかったかのような空を目の前にして今さっきの出来事について考えていた。

 

シュトレン作りに不安要素がいくつもあった。バターは染み込ませるか、塗るかで大きく原価が変わる。原価を下げるために塗るか。でも、お客さまの食卓に届いてからも、その後も、安心安全でなければならない。少し高くなっても日持ちさせるために染み込ませるべきだ。そもそも製品化が初めてであって、工程の流れはイメージできているが実際にできるかどうか。

 

バターを馴染ませるために室内で寝かせる間、製品に問題が起きないように保管するにはどうすればよいか。安易にビニール類を使うのは異物混入が起きやすい。粉糖は白い。雪の上で白い野うさぎ1匹を捕まえるようなものだ。梱包後の製品が無事にお客さまの元まで届くか。形は崩れないか。その対策は。

 

”それ”と出会ったことについてしばらく考えたあと、きっといいことが起こる兆しな気がした。「大丈夫だよ、上手くいく」と言われているようでもあったし、私が目線をむけるのを待っていたかのようにも思えた。そう思いたかった。

 

もし玄関を出る時間が少しでも早まったら、遅くなったら。買い物に行くのを明日に延期していたら。靴紐を家の中で結んでいたら。空を見ずに、たとえば何となくその辺を見ていたら。

 

“それ”を見るまでに、私の中でくり返された選択と決断。どの選択も決断もずれてはならなかった。パズルのピース同士みたいに、ピタッと当てはまらなければならなかった。

 

エメラルドグリーンの”それ”が、たまたま目線を向けた先に現れて消えていくまでの光景が、私の中で何度もプレイバックする。昼間の暖かさとは一変して、日が落ちてしばらく経った冷えた空気が身体を包む。冬のはじまりを予感する澄んだ空気が流れていく。吐く息はそろそろ白くなるだろう。そんな気温。

 

それが過ぎ去ったに黒い空から目を離せないでいた。