虐待、父の死、天涯孤独、美容整形、結婚 24歳になった今思うこと

いつも当ブログ「美しくなければ生きていけない」をご覧いただき、ありがとうございます。

「美しくなること」をメインテーマに執筆してきましたが、今回は私の人生を1ページにまとめることにしました。

というのも、10時間以上かけて、顔を大きく変える美容整形をうけるからです。

無事に麻酔から目を覚ませることを祈りますが、何が起きるかわかりません。だから「嫌われてもいいや」という気持ちで、ずっと書きたかったことを書きます。

筆者の人生の話ではありますが、1つの短編小説だと捉えていただければ読みやすいかなと思います。

もし手術から生還できなかったら、この記事は私の遺書になるでしょう。

美容整形に身を捧げた女のむかしの記憶 

時折、これまでの人生についてふりかえることがある。

電車を待つホームで。飛行機を待つゲートの前で。ゆっくりと流れる時間がある、1人のときにかぎって、過去の記憶をたどることが多い。さまざまな記憶が断片的に流れるが、考えたところで結局答えはでない。

これまで経験してきたことのすべてに、果たして意味があったのだろうかと。

私は14歳から天涯孤独だった。しかし、この世に生を受けたのだから、両親がいなかったわけではない。3歳になるまで、母と父がいた。

母はマレーシア人。異国の地でストレスがかさなったせいか、母は体調を崩し、仕方なく祖国に帰ることになったのが離婚した大きな原因だと聞いている。

父は、14歳のときに癌で亡くなった。50歳だった。

▲父に抱かれながらすべり台で遊ぶわたし

父は私のヒーローであったのに、積み木がガラガラと倒れるかのように、あっという間にこの世を去ってしまった。

闘病中だった父は、こんなことも言っていた。

「あと3年たったら、ハワイでゴルフをしよう」

自分があと3年も生きられないと知っているのに、その言葉を残して。

背が高く、抱きしめられると胸の中におさまるくらい大きな身体。いつもコロンの香りをさせていて、それを父のニオイだと感じて、とても好きだった。

幼少期は父方の親戚の家にあずけられて育ち、週に何度か会いにきてくれた。

父に会うのがいつも楽しみで、あと何時間後に会えるのかを電卓を使って計算するほど待ち望んでいた。1日は24時間。24に、会えるまでの日数をかける。

「あと72時間後か、長いなあ」

その計算した数値によっては、寂しく思ったりもした。

昔のよい記憶とは裏腹に、別の父の記憶もある。

色鮮やかな花の中にうもれ、桐箱の中に収まっているやせ細った父の姿。涙したい気持ちをおさえ、葬儀に参列した周囲の人のマネをするように、色鮮やかな花を父にそえる。

中には「よく頑張ったな」と声をかける者もいる。祖母が悲しみをギュッとこらえながら、同じように花をそえている。

あの日を思い出すと、父の亡骸がステンレスの箱の中に押しこめられ、スイッチが押される瞬間の映像が脳裏で流れる。

ステンレスの箱の中から出てきたものは、父ではなく「父であったであろう」燃えカス。目を背けたい記憶から目をつぶるが、まぶたの裏までこびりつき、逃れることはできない。

あれから10年。私は美容整形をくり返す1人の女になった。

父のことが大好きだった私はいない。その父もとっくに、この世にはいない。

私のために愛してもいない人と再婚をした父

生前の父は「いい男」だった。

182cmの長身、スポーツマン、いい大学を卒業。ホテルマンだった父は、40代ではめずらしく役職が高く、仕事もできる頭脳派。

しかし、典型的な「いい男」にも問題があったようで、バツが3つ付いていることから、結婚には不向きだったと言える。

▲若かりし頃の父。20代後半〜30代前半くらい

2番目に結婚をした、マレーシア人女性との間に生まれた子供がわたし。

離婚後も、父は女性にモテた。バレンタインデーに贈られたチョコを始末するのは、いつも私の仕事。

箱をあけてみると「○○○さん(父の名前)大好き」とデコられたチョコもあった。4〜5歳だった当時、子供ながらに後ろめたさを感じながら食べていた。

時折、交際する女性もできたようで、父と一緒に、優しいお姉さんと食事をしたり、遊びにいくこともあった。「父の彼女」という認識はなく「ときどき会う優しいお姉さん」としか思っていなかった。

連れ子が、大きな妨げになったのだろうか。しばらくはどの「お姉さん」とも再婚にはいたらなかった。

寂しい思いをさせて申し訳ない、と思ったのかもしれない。私が小学3年生にあがるころ、父が再婚をした。

はじめはただの「ときどき会う優しいお姉さん」だったのが、いつの間にかぎこちなく「お母さん」と呼んでいて、いつの間にか結婚式をあげ、いつの間にか継母ができた。

父が再婚を急いだ理由は、父との電話口で「お母さんがほしい」と、ねだったからではないかと子供ながらに思った。別に、本当はそこまで母親がほしいわけではなかったのに。「再婚をしてくれれば、父と一緒に暮らせるのではないか」という子供心だったのに。

結局、再婚生活は「愛」がなかった。

再婚をする前からケンカが絶えず、再婚をした後もケンカが絶えずエスカレート。

思い描いていた温かい家庭は、どこへやら。

継母からの虐待の日々 逃げ出すまでの記録

継母と父との暮らしは、3年で終わる。

夫婦仲が悪かったのも離婚の理由だが、継母から虐待されていたことを父に告白をしたのが、離婚の決め手になった。

私にだけご飯がない
私の身体を傘でたたく
私の髪の毛を掴んで振り回す
私の頭を床にたたきつける
私に死ね、醜い子だと言う

「もうお母さんと一緒に暮らしたくない」

心と身体を傷つけられる日々から逃れたい思いから、こう父に告げた。この一言を伝えるまで、何回タイミングをうかがっただろう。

やっとの思いで伝えることができたのは、ウイルス性胃腸炎とインフルエンザを併発して入院し、父が付きそいのために、簡易ベッドで寝泊りをしてくれた時だった。

普段、自宅で父と2人っきりにチャンスはない。

継母は、わたしと父との会話に聞き耳をたてている。行動もすべて監視されている。口が裂けても「毎日殴られている」と、言えるものではない。

もし告げ口しているのを聞かれてしまったら......と考えると、継母と2人きりになる状況が恐ろしくてたまらない。一体どんなことをされるのか。足が1本なくなってもおかしくはなさそうだ。

だから、3年間「大人しく、聞きわけのよい私」を演じるしかなかった。

そんな毎日。父と2人っきりになれるチャンスが巡ってきたのは、病室だった。

上からも下からも垂れ流しつつ、生まれてはじめてウイルスに感謝をした。暴力や暴言から逃れられる、ありがたいウイルスを手放したくない。看護師さんからもらった薬を洗面台に流した。

虐待を告白した後、家から逃げ出せる体力がもどるのを待ち、父方の親戚の家へ避難した。

ある日の早朝。継母が眠っている間に、物音を立てないよう静かに家を飛びだす。

最寄りの駅まで父と一緒に走り、電車にのった。包丁を持って追いかけてくるかもしれないからと、父は「自宅にある包丁やはさみを隠してきた」と言った。

当のわたしは、刃物を隠してまで家をでた父の心境とは裏腹に、虐待される日々から解放される嬉しさ。めったに訪れない父と2人きりの外出に、心が踊っていた。

その後、父と継母は別居。しかし「ある事情」があり、なかなか離婚が決まらなかった。

父が継母を訴えた。

継母と暮らしていた3年のあいだに、私は大きな怪我を何度かした。

左目を失明しかけるほどの大怪我
頭部を殴られて何針か縫う

その他、引っかき傷、あざ、水ぶくれはしょっちゅう。小学校の健康診断では「栄養が足りない」という結果が出ても、用紙をやぶり捨てられる。

怪我をした当時は、真実を隠していた。継母からも「父には絶対言うな、言ったらどうなるかわかっているだろうな」と、口止めされていたから。

あの日の病室で「いままでの怪我は継母にされた」という告白もした。それを聞いた父は、大人のやり方で罰しようと裁判をおこしたのだった。

しかし、裁判は確実に証拠不十分。

虐待された私の記憶。ヒステリックになり、怒りに身を任せてわたし殴った継母の記憶。この2つしか、真実を証明するものはない。

継母から受けた数々の悲しいことは、たしかな真実であるはずなのに。

父と継母の離婚が決まったのは、父がなくなってからの話だった。

父が死んだのは私のせい あのまま埋められればよかったのに

▲大学時代の父

虐待の日々や、父がなくなった当時を思い返すと「私は子供だったな」と感じるほど、時が流れた。

でも、未だに父がなくなった原因は「自分の責任だ」という気持ちが、胸の片隅にシコリのように残っている。本当は父に会いたかっただけなのに、母親をねだったこと。苦しさから逃れたいがために、継母からの虐待を告白したこと。

娘が気がつかぬ間に虐待をされた事実は、それはショックだったに違いない。それに加え、いくつもの裁判。心労が重なるのは当たり前。

2人暮らしはじめた矢先、父の身体のあちこちに病気がみつかり、その1年半後にあっけなく逝ってしまった。

あの時、私が死んでいたらよかったのに。


ある日、いつものように継母の「怒りの地雷」を踏んだ。

その地雷は、いつもどこにあるか分からない。踏まないようにしていても、急に現れたりもする。踏まないように細心の注意をふるっても、継母はその慎重な様子もお気にめさないようだ。地雷をむこうから投げつけられるような、理不尽な状況にも出くわした。

確かこのときは、地雷をむこうから投げつけられた理不尽な日。

馬乗りになり、首を絞められる。

継母からの暴力や暴言には手加減がないけれど、流石に「首を絞める=死」である。力の加減はするだろう。いつものように我慢していれば収まるだろう。でも、今日は様子が違う。

死ね、と叫んでいる。

首を絞める圧力、継母の表情。この人は本気で私を殺そうとしている。

息をするだけで生きているだけで、殺意をむけられる。私ってなんて価値のない人間。きっと継母は、私を「何も感じない肉団子」としか思っていない。

首を絞められるのは、想像以上に苦しい。

顔に血がのぼり、ノドが潰れるような感覚。継母の髪の毛が私の顔に垂れさがり、あまったるい女のニオイがする。継母の目は血ばしり、その形相はまさに「鬼」そのもの。

継母がわたしを殺めようとする時間は、ものの数十秒だったかもしれない。でも、その時間はまるでスローモーションのようで、横目で隣にある窓からベランダをながめる暇さえあった。

天気のよい午後だった。

窓をはさんだむこう側の世界では、太陽の香りがしそうなほど日が差している。枯れて茶色くなった雑草が、日差しにあたり輝いている。

その光景をみながら、自分の行くすえを悟った。

「この人はわたしを絞め殺したあと、ベランダに穴を掘って埋めるに違いない」

でも、これを書いているのだから埋められずに今があるわけだが、本当はそうなるべきだったのかもしれない。

私を殺して、埋めてくれたならよかったのに。そうすれば継母は警察に捕まり、父は死ななかったはずだろうと。

優秀な父が生きていた方が、誰もが喜んだに違いない。

誰も助けてくれなかった大人たち

なぜ3年もの長い間、継母からの虐待が父にバレなかったのか。

きっと、誰もが疑問に思うだろう。

虐待を告白し、父方の親戚に逃げたあと「ちょっと気の強い人に見えたけど、そんなことをする人に見えなかった」と、親族は口をそろえて言う。

同じ屋根の下に暮らすもの同士なのだから、虐待を隠すなど難しいのではないかと、信じられない人もいるかもしれない。しかし、継母は「隠し通すことができる女」なのを、みんな知らないだけ。

父の前では優しい母を演じ、父が不在にした途端、虐待をする怖い母親に変貌する。偽りの仮面を上手に使いわけ、彼女はずっと「優しくて、美人で、いい母親」を演じていた。だから、大勢の人を騙せたのだ。

しかし、偽りの仮面は長くは保てない。継母は家の中で弱い立場にある私の前だけ、ヒステリック女に変貌した。

そんな生活が続いている中で、子供ながらに不思議に思っていたことがある。

父と継母は愛しあってもいないのに、喧嘩が絶えない。それなのになぜ結婚生活を続け、一緒に暮らすのだろうかと。父は娘のために夫婦生活を続けたかったのかもしれない。

では、継母はどうだろうか。

毎日暴力をふるいたくなるほど「憎い他人の子供」と一緒に暮らす意味が、どこにあるのだろうか。継母が結婚生活をつづけたかった理由を、父がなくなった3〜4年後に知れた。

お金。

ちょうど裁判が決着がつかずに何年もたち、多額の遺産を渡すことを条件に和解をする方向ではなしが進んでいたころ。

「今でも○○さん(父の名前)を愛している」と心にもないことを言いながら、多額のお金を要求しに、父方の親戚の家に訪れたのだという。

という話を、伯母からの電話で聞かされた。

彼女は絶対に知るはずがない。

父がどんな風に苦しみ、悲しみ、人生に絶望をして、どうやって死んでいったのかも知らないで、よくも「愛している」と嘘をつけたものだなと。

継母は夫婦になった相手が死んでも、偽りの仮面を使いわけ、お金の無心をする。

薄汚い大人なんて、大嫌いだ。

虐待した継母を許せるか 受け入れるしか道はない

継母を許すか、許さないかの問題については、10年以上たっても頭を悩ませる。

お風呂の浴槽のなかに、頭をしずませられたこと。鼻血が出るまで殴られたこと。

「お前は醜い、汚い」
「自分の髪を切れ、坊主にしろ」

と、正座をさせられ、ハサミで髪の毛を切るよう強要をさせられたこと。

真冬に外にしめ出され、足の感覚がなくなったこと。寒くて寂しくて、1人で泣いたこと。誕生日なのに、叩かれて殴られたこと。

わたしの何が悪かったのか?

「許せるか?」と言われたら、答えにつまる。反対に「許せないか?」と言われたら「YES」と、答えてしまいたくなる。

けれど、良心が「許せない」と答えないようにストップをかけている。許すことを選んだ方が、他者から見たときに「人としていいように評価されやすい」とわかっているからだ。

世間一般の価値観では、誰かにひどい仕打ちをうけたとき、相手を許すことを選んだ方が「善」であると誰もが思うはず。

例えどんな酷いことをされようが、どんな不幸に見舞われようが、許せる人間は美しい。許しとは「美学」でもある。

そうだと分かっているからこそ、自分のために。または他者から見たときに「善」に映るようにしておきたい。そんな、自分のエゴなのかもしれない。

もしくは「憎しみを抱えながら生きるよりも、相手を許して平穏に生きる選択をする」という、美しい姿を選びたいのかもしれない。

許しについて、海外ドラマ ウォーキング・デッドのシーンに、心を打たれるこんなセリフがある。

怒りより許しのほうが強い

これは、ウォーキング・デッドに出てくる主要メンバーの1人が、ある人物に言い放ったセリフだ。

本当は怒りや憎しみでいっぱいなのに、それでも許しを選ぶことは、容易ではない。だから、どんなことをされようが、どんな酷いめにあおうが、相手を許せる人は強いのだ。

という意味が、セリフに込められている。

このセリフを聞いたときに、自分の過去と重ねてドキッとした。

「許せる人の方が強い」と頭では理解できるが、残念ながら今の私に「許し」を選択するほどの強さはない。

となれば、私は無言で過去を受け入れることしか、道はないのだろう。

24歳になった今思うこと

24歳になるまでの人生、決してよい道を歩んできたとは言えない。

中学高校はろくに行かず、大学は中退して学費がムダになった。就職もせずに水商売をしたり、貯めたお金で美容整形をくり返した。きっと父が生きていたら、怒鳴られるに違いない。

しかし、最近、人生がよい方向に変わってきたと感じている。

在宅でできるWEBライターの仕事に出会い、ブログもはじめた。そして、2018年1月に入籍をした。弱く、未熟で、醜い私を受けいれてくれた「証」に感じた。

そのおかげか過去に体験したさまざまな記憶は、ぼんやりと薄くなりはじめている。

ときどき昔を思い出し涙することもあるけれど、とにかく今は夫と毎日楽しく過ごすこと。仕事、やりたいことなど、生きる目的がハッキリしたことで過去を気にする機会が減ってきた。

また、いつも温かく迎えてくれる親族。愉快な友人達との出会いもあり、心のキズを癒す時間もふえた。

このような愛情、人とのつながり、生きる目的。24歳まで生きたことで「人生は自分の手で変えることができる」と、理解できてきたように思う。

幼いころの自分に何かを伝えることができるなら、「今感じている痛みは、いつか消えるものだ」と言いたい。同じように、虐待の癒えない傷に苦しんでいる人がいたら「きっと大丈夫」と、伝えたい。

今でも、うまくは生きられない。

しかし、愛する人と出会えたこと、人生を与えてくれたこと、悲しみを乗り越える経験を与えてくれたこと。

産んでくれた母、育ててくれた父。支えてくれた親族や友人に、感謝の意を示したい。

ありがとう。

最後に

私が継母から虐待をうけた期間は、たった3年の出来事だった。

きっと本当の母親ではなかったから、この期間ですんだのだと思う。

もし逃げられない環境下で、長い間傷ついている人がいるかもしれないと考えると、心の傷はどれほど深いものなのだろうかと胸が痛くなる。

誰か1人でも打ち明けられる人を見つけて、

  • こんなことがあった
  • こんな風に辛かった
  • こんな風に感じた

と、話してみてほしい。

言葉にして誰かに伝えることは「癒し」であるから。

私の人生を溶け込ませたこの記事が、誰かの心に届くこと祈るばかりだ。

大手術から生還しました(2018年2月17日追記)

長い記事を最後までご覧いただき、ありがとうございます。

美容整形は無事に終わり、生還しました。

手術時間は11時間6分でした。

この記事は遺書ではなくなりましたが、執筆した記念に残しています。

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