88歳の祖母の背中をみて思い出す昔の記憶

先日、88歳になる祖母と一緒に、落語を見に行ってきた。

無料のチケットが手に入ったので、一緒に見に行かないか? とのことだった。

久しぶりに会った祖母は、相変わらず小さかった。

祖母はもともと小柄な人であるが、年を重ねるごとに、段々と背が縮んでいっているような気がする。

私は166cmで、祖母は140cm。身長の差は26cm。わたしの胸の中にすっぽりと収まってしまう。

4歳から小学校2年まで祖母に育てられたが、その頃のわたしはまだ子供で、祖母のことを大きく感じていた。

あれから10年以上の時が経ち、今では祖母のことがとても小さく、とても可愛く見える。

並んで歩きながら、

「時の流れとはこういうことなのか」

と、しみじみと思う中で、頭が真っ白になり、小さく丸まった祖母の背中を数歩下がったところから見つめる。

その小さく丸まった背中を見ると、ある昔の記憶と重なるのだ。祖母と私にとって、忘れられないあの日だった。

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忘れられないあの日とは、10年前の冬。

空気がカラッと乾き、ほほが痛くなるほど冷えきった大晦日の夜だった。

末期ガンで、都内の大学病院に入院中だった父の容態が「よくない」と、一報が入る。

血圧が低く、いつ何があるかわからない危篤状態。

父方の親戚と一緒に、車を飛ばして大急ぎで駆けつけたのを覚えている。

病院に到着してみると見たこともない機械や、管につながれた父の姿が目に入る。

よく見ると大きな注射器の形をした鎮静剤の点滴が、父の近くにあった。

どうやら、自動的に注入できる機械のようだ。

末期がんの患者に鎮静剤を投与するなど、間違った対処法なのではないか?と、思われるかもしれないが、

大学病院に入院してからは、末期がんからくる「せん妄」」という症状が悪化していたため、鎮静剤を投与していた。

「せん妄」とは、脳の機能が低下する症状のことだ。

末期がんの患者にはよくあることらしい。

支離滅裂なことをいいはじめたり、人が変わったように暴れたり、看護師さんに暴力を振るうなどの問題行動を起こしていた。

周囲や本人にとって負担になるので、興奮と痛みを緩和するために鎮静剤が必要だったのだ。

大学病院に入る前は自宅近くの病院に入院していたが、その時から父は、人が変わったようにおかしくなった。

医師や看護師に対しての暴言や、意味不明な行動。

もう歩く力もないのに、無断で病院を抜け出し、タクシーを使いながら自宅に帰ってくるときもあった。

自宅ですごしたい父の気持ちを尊重し、そのまま在宅介護に移行した。

しかし、徐々にせん妄が進行していった。ヘルパーや看護師さんの手におえないほど、問題行動が多々あった。

一晩中、何かを叩いて音を出し、気に食わないことがあれば怒鳴り散らす。

食べ物を投げつけられたり、娘のわたしにライターで火をつけようとした。この記憶は、9年経った今でも忘れられない。

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病気を患う前の父は、ただの父親ではなかった。

母親がいなかったわたしには、たったひとりの親で、たったひとりの父親。

背が高く、かっこよく、女性からよくモテる。

わたしと会う時はいつもスーツを着て、タバコとコロンの香りをさせていた。

ホテルマンだったので、身なりや言葉遣いはとてもしっかりしていた。自慢の父だった。

まだ、土曜日に授業があった小学生のころ。

午前中で学校が終わるので、わざわざ迎えに来てくれたのを覚えている。

本当はいけないことなのだが校舎の中まで車で入ってきて、わたしが降りてくる下駄箱の付近に、見せびらかすように愛車のベンツを止めていた。

今思うと恥ずかしい気持ちではあるが、当時のわたしはそんな父親がとてもかっこよく、ヒーローのような存在だった。

同級生から注目されて、父がかっこいいと言われるのが嬉しかった。

そうやって派手に迎えに来てくれる父のことも、大好きだった。

でも、暴れて怒鳴り散らす父は、もう父ではない。

まるで、枯れてちっていく花のように。音を立てて崩れていく積み木のように。

朽ちていく父の姿を、ただただ見守るしかない。

その光景を見ながら元気だったころの父の姿は、もう戻ってこないのだと確信する。

なんて無力なのだと。わたしは、心の底から自分の無力さに絶望した。

そして、在宅介護をしていた時に、病状が悪化。大学病院に入院し、さらにせん妄に侵されていた。

せん妄の影響で興奮状態がおさまらず、通常なら少量で効果のある鎮静剤を何倍もの量を打たれてやっと眠るようになった。

もう為す術がなくなり、鎮静剤だけにかぎらず医療麻薬も使用し、緩和治療にうつった。

ある意味、もう死を待つしかないのである。

鎮静剤の投与をはじめたころ、入院中の大学病院から父が電話をしてくることがあった。

しかし、鎮静剤を打たれていたので、ろれつが回っていないらしい。

フニャフニャと、何を言っているか聞き取れない。

必死に聞き取ってみると、どうやら途切れ途切れで、わたしのことを心配してくれているのが理解できる。

「ご飯は食べているか」、「元気にしているか」。

たしか、そんなことを言っていたように思う。

自分がもう生きられないと思っていたのだろうか、久しぶりに父親らしいことを言われたような気がした。

そして、何気ない会話をかわして、電話を切った。

血圧が低く危篤状態との一報が入ったのは、ちょうどこの電話がきてから何日か経ったころだった。

鎮静剤を打たれ、静かになっている。

必死に生きようと、額には脂汗をかきながら呼吸している。

ベッドの足元を見てみると、尿をためておく袋が見える。少量ではあるが、尿がたまっているのが分かる。

本来なら、半年も生きられないと医師から宣告されていた。

しかし、実際は1年半も生きた。

親戚一同の意見で父には黙っていたが、もう何年も生きられないことはきっと本人が一番わかっていただろう。

それでも「あと5年は生きたい」と言っていた。

そう、父はまだ生きていたかったのだ。

そんな、息が絶えそうな父の横に、見守るように祖母が座り、ときおり声をかけている。

脂汗をかいた額を、懸命にぬぐう。

まだ14歳だったわたしは未熟だった。

たった1人の父の死が、これから訪れることに耐えられなかった。

失う恐怖で、そばに近づくことができない。

父がいなくなってしまう現実に胸が張り裂けそうになり、じっとしていられない。

トイレに行き、せわしなく動く。

そんな中、祖母は母親らしく父の世話をし続けていた。

父の額にある脂汗を拭ったり、声をかけ続ける。

その祖母を姿を、少し離れたところからわたしは見つめていた。

父を見つめる祖母の背中は小さく丸まり、どこか寂しげだった。

危篤状態と言われていたが、血圧の状態は安定していると医師に言われた。

今日は大丈夫だろうと判断し、祖母と祖父を残して、わたしは父方の親戚と一緒に帰ることにした。

ちょうどわたしが一旦自宅に戻り、リビングで過ごしていたときのことだった。

伯母から連絡が入り、父が亡くなった知らせをうける。

頭が真っ白になりながら、急いで着替えて、再び、大学病院に向かった。

外に出ると昼間とは違い、空は暗く空気は切るように冷たい。

冬らしい澄んだ空をひたすらながめながら、車を走らせる。

今度は父の亡骸に会うために。

祖母と祖父は、父の最後の最後まで見守ったそうだ。

父がどのように亡くなったのか、いまだに詳しく聞けていない。

あの時祖母と祖父と一緒に残っていれば、あの時帰らなければと、今も後悔している。

祖母の小さく丸まった背中を見て思い出すのは、10年前の大晦日。

生きたいと願う父を、じっと見守る母親らしい祖母の姿だった。