虐待、父の死、天涯孤独、美容整形、結婚 24歳になった今思うこと

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こんにちは、筋トレ・美容整形好きWebライター・ブロガーのseina(@st_0905)です。

いつも当ブログ「美しくなければ生きていけない」をご覧いただき、ありがとうございます。

当ブログは「美しくなること」がメインテーマですが、今回は私の人生を1ページにまとめることにしました。

というのも、もうすぐ顔をフル改造する、大きな美容整形をします(ルフォー・SSRO・オトガイ形成・頬骨弓骨切り)

手術時間は10時間を予定。

無事に麻酔から目を覚ませることを祈りますが、何が起きるかわかりません。だから「嫌われてもいいや」という気持ちで、ずっと書きたかったことを書きます。

前半を読んであきてしまった方は、元の画面に戻っていただいて構いません。筆者の人生の話ではありますが、1つの短編小説だと捉えていただければ読みやすいかなと思います。

もし手術から生還できなかったら、この記事は私の遺書になるでしょう。

美容整形に身を捧げた女のむかしの記憶 

時折、これまでの人生についてふりかえることがある。

電車を待つホームで。飛行機を待つゲートの前で。

ゆっくりと流れる時間がある、1人のときにかぎって、過去の記憶をたどることが多い。さまざまな記憶が断片的に流れるが、考えたところで結局答えはでない。

これまで経験してきたことのすべてに、果たして意味があったのだろうかと。

ここで、少しばかり昔ばなしをしてみよう。

私は14歳から天涯孤独。しかし、この世に生を受けたのだから、両親がいなかったわけではない。3歳になるまで母と父がいた。

母はマレーシア人。異国の地でストレスがかさなったせいか、母は体調を崩し、仕方なく祖国に帰ることになったのが離婚した大きな原因だと聞いている。

そして父は、14歳のときに癌で亡くなった。50歳だった。

▲父に抱かれながらすべり台で遊ぶわたし

父は私のヒーローであったのに、積み木がたおれるように音を立てながらガラガラと崩れて、この世を去っていってしまった。

闘病中だった父は、こんなことも言っていた。

「あと3年たったら、ハワイでゴルフをしよう」

自分があと3年も生きられないと知っているのに、その言葉を残して。

背が高く、抱きしめてもらうと胸の中にすっぽりとおさまるくらい大きな身体。いつもコロンの香りをさせていて、それを父のニオイだと感じて、とても好きだった。幼少期は父方の親戚の家にあずけられて育ち、週に何度か会いにきてくれた。

父に会うのがいつも楽しみで、あと何時間後に会えるのかを電卓を使って計算するほど待ち望んでいた。1日は24時間。電卓を使って24と、会えるまでの日数をかける。

「あと72時間後か、長いなあ」

その計算した数値によっては、寂しく思ったりもした。

こんな昔のよい記憶とは裏腹に、別の父の記憶もある。

それは、いろ鮮やかな花の中に埋もれて、桐箱の中に収まっているやせ細った父の姿だ。涙したい気持ちをおさえ、葬儀に参列した周囲の人のマネをするように、色鮮やかな花を父に添える。

中には、「よく頑張ったな」と声をかける者もいる。

すぐそばで祖母が悲しみをギュッとこらえながら、同じように花を添える。これは父の亡骸を火葬場へ送りだす直前の話。あの日を思い出すと、父の亡骸がステンレスの箱の中に押し込められ、スイッチが押される瞬間の映像が脳裏で流れる。

「そのボタンを押さないで」
「灰にしないで」

と、涙腺に蓋をしながら、願うしか術がなかった私を思い出す。

ステンレスの箱の中から出てきたものは、父ではなく「父であったであろう」燃えカス。目を背けたい記憶から目をつぶるが、まぶたの裏までこびりつき、逃れることはできない。

あれから10年。私は美容整形をくり返す1人の女になった。

父のことが大好きだった私はいない。

その父もとっくに、この世にはいない。

私のために愛してもいない人と再婚をした父

生前の父は「いい男」だった。

182cmの長身。スポーツマン。いい大学を卒業。かっこいい車を乗り回す。

ホテルマンだった父は、40代ではめずらしく役職が高く、仕事もできる頭脳派。典型的な「いい男」にも問題があったようで、結婚には不向きだった。

父にはバツが3つついている。

▲若かりし頃の父。20代後半〜30代前半くらい

私は、2番目に結婚をしたマレーシア人女性との間に生まれた子。3歳のころに離婚したあとも、父は女性にモテた。バレンタインデーに贈られたチョコを始末するのは、いつも私の仕事。

箱をあけてみると「○○○さん(父の名前)大好き」とデコられたチョコもあったり、4〜5歳だった当時、子供ながらに後ろめたさを感じながら食べていた。

時折交際する女性もできたようで、父と優しいお姉さんと一緒に食事をしたり、遊びにいくこともあった。「父の彼女」という認識はなく、「時々会う優しいお姉さん」としか思っていなかった。

連れ子がが、大きな妨げになったのだろうか。しばらくはどの「優しいお姉さん」とも再婚にはいたらなかった。

父親ながら「寂しい思いをさせて申し訳ない」と思ったのかもしれない。私が小学2年生から3年生にあがるころ、父が再婚をした。はじめはただの「よく一緒にいる優しいお姉さん」だったのが、いつの間にかぎこちなく「お母さん」と呼んでいて、いつの間にか結婚式をあげ、いつの間にか継母ができた。

トントン拍子の再婚。

父が再婚を急いだ理由は、父との電話口で「お母さんがほしい」と、私がねだったからではないかと子供ながらに思った。

別に、本当はそこまで母親がほしいわけではなかったのに。「再婚をしてくれれば、父と一緒に暮らせるのではないか」の子供心だった。

結局、再婚生活は「愛」がなかった。

再婚をする前からケンカが絶えず、再婚をした後もケンカが絶えずエスカレート。思い描いていた温かい家庭はどこへやら。

父が継母に暴力をふるう日々に変化した。

継母からの虐待の日々 逃げ出すまでの記録

継母と父との暮らしは、3年で終わる。

夫婦仲が悪かったのも離婚の理由だが、継母から虐待されていたことを父に告白をしたのが離婚の決め手になった。

私にだけご飯がない
私の身体を傘でたたく
私の髪の毛を掴んで振り回す
私の頭を床にたたきつける
私に死ね、醜い子だと言う

「もうお母さんと一緒に暮らしたくない」

心と身体を傷つけられる日々から逃れたい思いから、こう父に告げた。

この一言を伝えるまで、何回タイミングをうかがっただろう。

やっとの思いで伝えることができたのは、ウイルス性胃腸炎とインフルエンザを併発して入院し、父が付き添いのために、簡易ベッドで寝泊りをしてくれた時だった。

普段、自宅で父と2人っきりにチャンスはない。

継母は父と話すことに事細かく聞き耳を立て、行動もすべて監視されている。口が裂けても「毎日殴られている」と言えるものではない。

「もし告げ口しているのを聞かれてしまったら」と考えると、継母と2人きりになったときが恐ろしい。一体どんなことをされるのか。足が1本なくなってもおかしくはなさそうだ。

例えに父に告げられたとしても、絶対継母に問いつめるはず。そうなったら、継母と2人っきりになるのは避けられない。

と考えると、下手に秘密を打ち明けられない。だから、3年間「大人しく聞きわけのよい私」を演じることしかできなかった。

そんな毎日。父と2人っきりになれるチャンスが巡ってきたのは、病室だった。

上からも下からも垂れ流しつつ、生まれてはじめてウイルスに感謝をした。暴力や暴言から逃れられる、ありがたいウイルスを手放したくない。看護師さんからもらった薬を洗面台に流したりもした。

虐待を告白したその後。家から逃げ出せる体力がもどるのを待ち、父方の親戚の家へと避難した。

ある日の早朝。

継母が眠っている間に、物音を立てないよう静かに家を飛びだす。

最寄りの駅まで父と一緒に走り、電車に乗った。包丁を持って追いかけてくるかもしれないからと、父は「自宅にある包丁やはさみを隠してきた」と言った。

当のわたしは刃物を隠してまで家を出てきた父の心境とは裏腹に、虐待される日々から解放される嬉しさと、めったに訪れない父と2人きりの外出に、心が踊っていた。

その後、父と継母は別居。しかし「ある事情」があり、なかなか離婚が決まらなかった。

父が継母を訴えたからだ。

継母と暮らしていた3年のあいだに、私は大きな怪我を何度かした。

  • 左目を失明しかけるほどの大怪我
  • 頭部を殴られて何針か縫う

その他、引っかき傷、あざ、水ぶくれはしょっちゅう。小学校の健康診断では「栄養が足りない」という結果が出ても、破り捨てられる。

怪我をした当時は、「自分で滑って転んだ」と真実を話さなかった。継母からも「父には絶対言うな、言ったらどうなるかわかっているだろうな」と、口止めされていたからだ。

あの日の病室で、これらの怪我の原因はすべて継母にされた、という告白した。それを聞いた父は、大人のやり方で罰しようと裁判をおこしたのだった。

裁判の証拠のため、法律事務所で調書をとったり、裁判に出廷もした。

しかし、裁判は確実に証拠不十分だった。

虐待された私の記憶。
ヒステリックになり、怒りに身を任せてわたし殴った継母の記憶。

これしか真実を証明するものはなにもない。

継母から受けた数々の悲しいことは、たしかな真実であるはずなのに。

父と継母の離婚が決まったのは、父がなくなってからの話だった。

父が死んだのは私のせい 私はあのまま埋められればよかったのに

▲大学時代の父

虐待の日々や、父がなくなった当時を思い返すと「私は子供だったな」と感じるほど、時が流れた。

でも、未だに父がなくなった原因は「自分の責任だ」という気持ちが、胸の片隅にシコリのように残っている。

本当は父に会いたかっただけなのに、母親をねだったこと。
苦しさから逃れたいがために、継母からの虐待を告白したこと。

娘が気がつかぬ間に虐待をされた事実は、それはショックだったに違いない。それに加え、いくつもの裁判。

心労が重なるのは当たり前。

2人暮らしはじめた矢先、父の身体のあちこちに病気がみつかり、その1年半後にあっけなく逝ってしまった。

私はいつものように、継母の「怒りの地雷」を踏んだことがあった。

その地雷は、いつもどこにあるか分からない。踏まないようにしていても、急に現れたりもする。踏まないように細心の注意をふるっても、継母はその慎重な様子もお気にめさないようだ。

地雷をむこうから投げつけられるような、理不尽なこともよくあった。

確かこのときは、地雷をむこうから投げつけられた理不尽な日。

馬乗りになり、首を絞める。継母からの暴力や暴言には手加減がないけれど、流石に「首を絞める=死」。力の加減はするだろう。いつものように我慢していれば収まるだろう。でも、今日は様子が違う。

「死ね!」と叫んでいる。

首を絞める圧力、継母の表情。あ、この人は本気で私を殺そうとしている。

息をするだけで生きているだけで、殺意をむけられる。私ってなんて価値のない人間。きっと継母は、私を「何も感じない肉団子」としか思っていない。

小学校4年生。まだ体重は30kgちょっと。人の殺意を肌で感じた。

首を絞められるのは、想像以上に苦しい。

顔に血がのぼり、喉が潰れるような感覚。継母の髪の毛が私の顔に垂れ下がり、あまったるい女のニオイがする。目の前に映っている人は目が血走り、その形相はまさに「鬼」そのもの。

継母がわたしを殺めようとする時間は、ものの数十秒だったかもしれない。でも、その時間はスローモーションのようで、横目で隣にある窓からベランダを眺める間さえあった。

天気のよい午後だった。

窓を挟んだむこう側の世界では、太陽の香りがしそうなほど日が差している。枯れて茶色くなった雑草が、日差しにあたり輝く。

その光景を見ながら、自分の行くすえを悟った。

「この人はわたしを絞め殺したあと、ベランダに穴を掘って埋めるに違いない」

でも、これを書いているのだから埋められずに今があるわけだが、本当はそうなるべきだったのかもしれない。

私を殺して、埋めてくれたならよかったのに。そうすれば継母は警察に捕まり、父は死ななかったはずだろうと。

優秀な父が生きていた方が、誰もが喜んだに違いない。

誰も助けてくれなかった大人たち

なぜ3年もの長い間、継母からの虐待が父にバレなかったのか。

きっと、誰もが疑問に思うだろう。

虐待を告白し、父方の親戚に逃げたあと。

「ちょっと気の強い人に見えたけど、そんなことをする人に見えなかった」

と、親族は口を揃えていう。

同じ屋根の下に暮らすもの同士なのだから、虐待を隠すことなどできないのではないかと、信じられない人もいるかもしれない。しかし、継母は「隠し通すことができる女」なのを、みんな知らないだけ。

父の前では優しい母を演じ、父が不在にした途端、虐待をする怖い母親にコロッと変貌する。この偽りの仮面を上手に使いわけ、彼女はずっと「優しくて美人でいい母親」を演じていた。

だから、父方の親族をもダマすことができた。

しかし、偽りの仮面は長くは保てない。継母は家の中で弱い立場にある私の前だけ、ヒステリック女に変貌した。

そんな生活が続いている中で、子供ながらに不思議に思っていたことがある。

父と継母は愛しあってもいないのに、喧嘩が絶えない。それなのになぜ結婚生活を続け、一緒に暮らすのだろうかと。父は娘のために夫婦生活を続けたかったのかもしれない。

継母はどうだろうか。毎日暴力をふるいたくなるほど「憎い他人の子供」と一緒に暮らす意味が、どこにあるのだろうか。

継母が結婚生活を続けたかった理由を、父がなくなった3〜4年後に知れた。

お金。

ちょうど裁判が決着がつかずに何年もたち、多額の遺産を渡すことを条件に和解をする方向ではなしが進んでいたころ。「今でも○○○さん(父の名前)を愛している」と心にもないことを言いながら、多額のお金を要求しに、父方の親戚の家に訪れたのだという。

という話を、伯母からの電話で聞かされた。

彼女は絶対に知るはずがない。

父がどんな風に苦しみ、悲しみ、人生に絶望をして、どうやって死んでいったのかも知らないで、よくも「愛している」と嘘をつけたものだなと。

憎しみや悲しみが入りまじった感情が、胸の中で爆発した。

継母は夫婦になった相手が死んでも、偽りの仮面を使いわけ、お金の無心をする。

薄汚い大人なんて、大嫌いだ。

虐待した継母を許せるか 受け入れるしか道はない

継母を許すか許さないかの問題については、10年以上たっても頭を悩ませる。

お風呂の浴槽に沈ませて、溺れさせようとしたこと。鼻血が出るまで殴られたこと。

「お前は醜い、汚い」
「自分の髪を切れ、坊主にしろ」

と、正座をさせられ、ハサミで髪の毛を切るよう強要をさせられたこと。

真冬に外に締め出され、足の感覚がなくなったこと。寒くて寂しくて、1人で泣いたこと。誕生日なのに、叩かれて殴られたこと。

わたしの何が悪かったのか?

これまで受けた痛みや悲しみを思い出し、消化することができない。

「許せるか?」と言われたら、答えにつまる。反対に「許せないか?」と言われたら「YES」と答えてしまいたくなる。

けれど、良心が「許せない」と答えないようにストップをかけている。許すことを選んだ方が、他者から見たときに「人としていいように評価されやすい」とわかっているからだ。

世間一般の価値観では、誰かに酷いことをされたとき、相手を許すことを選んだ方が「善(ぜん)」であると誰もが思うはず。

例えどんな酷いことをさレようが、どんな不幸に見舞われようが、許せる人間は美しい。許しとは「美学」でもある。

そうだと分かっているからこそ、自分のために。または他者から見たときに「善(ぜん)」に映るようにしておきたい。そんな、自分のエゴなのかもしれない。

もしくは「憎しみを抱えながら生きるよりも、相手を許して平穏に生きる選択をする」という、美しい姿を選びたいのかもしれない。

許しについて、海外ドラマ ウォーキング・デッドのシーンに、心を打たれるこんなセリフがある。

「怒りより許しのほうが強い」

これは、ウォーキング・デッドに出てくる主要メンバーの1人が、ある人物に言い放ったセリフだ。

本当は怒りや憎しみでいっぱいなのに、それでも許しを選ぶことは、容易ではない。だから、どんなことをされようが、どんな酷いめにあおうが、相手を許せる人は強いのだ。

という意味が、セリフに込められている。

このセリフを聞いたときに、自分の過去と重ねてドキッとした。許せる人の方が強いと頭では理解できるが、残念ながら今の私に「許し」を選択するほどの強さはない。

となれば、私は無言で過去を受け入れることしか、道はないのだろう。

24歳になった今思うこと

24歳になるまでの人生、決してよい道を歩んできたとは言えない。

中学高校はろくに行かず、大学は中退して学費がムダになった。就職もせずに水商売をしたり、貯めたお金で美容整形をくり返した。きっと父が生きていたら、怒鳴られるに違いない。

でも、ブログ運営をはじめた2年の間に、人生がよい方向に変わってきたと感じている。

在宅でできるWebライターの仕事に出会い、ブログもはじめた。そして、2018年1月に入籍をした。弱く、未熟で、醜い私を受けいれてくれた「証」に感じた。

そのおかげか過去に体験したさまざまな記憶は、ぼんやりと薄くなりはじめている。

ときどき昔を思い出し涙することもあるけれど、とにかく今は夫と毎日楽しく過ごすこと。仕事、やりたいことなど、生きる目的がハッキリしたことで過去を気にする機会が減ってきた。

また、いつも温かく迎えてくれる親族。愉快な友人達との出会いもあり、心のキズを癒す時間も増えた。

このような愛情、人とのつながり、生きる目的。24歳まで生きたことで「人生は自分の手で変えることができる」と理解できてきたように思う。

幼いころの自分に何かを伝えることができるなら、「今感じている痛みは、いつか消えるものだ」と言いたい。同じように、虐待の癒えない傷に苦しんでいる人がいたら「きっと大丈夫」と伝えたい。

今でも、うまくは生きられない。

しかし、愛する人と出会えたこと、人生を与えてくれたこと、悲しみを乗り越える経験を与えてくれたこと。

産んでくれた母、育ててくれた父。支えてくれた親族や友人に、感謝の意を示したい。

ありがとう。

最後に

私が継母から虐待をうけた期間は、たった3年の出来事だった。

きっと本当の母親ではなかったから、この期間ですんだのだと思う。

もし逃げられない環境下で、長い間傷ついている人がいるかもしれないと考えると、心の傷はどれほど深いものなのだろうかと胸が痛くなる。

誰か1人でも打ち明けられる人を見つけて、

  • こんなことがあった
  • こんな風に辛かった
  • こんな風に感じた

と、話してみてほしい。

言葉にして誰かに伝えることは「癒し」であるから。

私の人生を溶け込ませたこの記事が、誰かの心に届くこと祈るばかりだ。

大手術から生還しました 2018年2月17日追記 

長い記事を最後までご覧いただき、ありがとうございます。

2018年2月1日に顔の骨格を変える美容整形をうけ、無事に生還しました。手術時間は11時間6分でした。

この記事は「遺書」ではなくなりましたが、執筆した記念に残しています。また、術後にダウンタイム日記を書きましたので、ご興味のある方は下記のリンクからどうぞ。

「顔の骨格を変える美容整形ってこんな感じなのか」と、お分りいただけるのではないかと思います。

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この記事を書いた人

Seina

Seina

当ブログでは「美しくなること」をメインテーマに執筆。整形と減量でブサイクから生まれ変わった経験を活かし、ライター・ブロガーとして活動しています。その他、メディア運営&編集長。整形のご相談はココナラで対応中。お仕事のご依頼、その他ご相談はお問い合わせからお願い致します。>詳細プロフィールはこちら