ちょっと待ってよ。
いくら何でもできすぎでしょ。
ときどき、神が本気を出して作ったような人がいる。
華奢で可愛くて、人形のように美しい人。いるだけで、華になるような人。顔の造形美だけではなく、コミュニケーション能力まで高い人。知的で上品で、自信のある立ち振舞いがある人。
高学歴で聞こえのいい職業なら、もう困った。顔もよくって、ほかもいいなんて。
服の袖を噛み「キーッと」奇声を発し、心の中で舌打ちしたくなるような場面に遭遇することが、年に1〜2回あります。
劣等感丸出しですが、自分の人生を呪ってるわけではありません。
一般女性よりも大きい体型も、内向的な性格も受け入れるようになってきました。
ただ、ブサイクで生まれてきてしまったこと以外は。
美醜格差は、整形で解決しようと試みました。目、鼻、輪郭、上アゴ、下アゴも変えました。しかし、現代の医療には、ブサイクから絶世の美女に変えるほどの技術はありません。
だから、神が本気で作ったような人と比べると、生まれた意味を問いたくなる。私がいくら整形をしても、埋められない格差があるのです。
こんな世の中を、どう生きていけばいいのか。楽に生きるポイントは他者にあります。
ブサイクなら顔を変えればいいじゃない やってみたけどダメでした
神が本気で作ったような人を羨むなら、近づけるように努力すればいい。
能力はこれから高められる。コミュ力が低いなら、人と会って練習するなり、本を読むなりすればいい。ブサイクな容姿が気に入らないなら、変えればいい。
私はブサイクな容姿で生まれてきてしまったので、美容整形に700万円投資して変えてみました。ところがどっこい、普通なんです。
▲小学生〜現在までの変化(体重はピーク時で73kg。現在は55kg)
整形未経験の方からすれば、「美容整形をする=女優並みにキレイになれること」と思うかもしれません。それは、ビューティーコロシアムや整形シンデレラなど、メディアの影響もあるでしょう。
容姿に悩み、人生もうまくいかない悩める人たち。整形をすると美しくなれるだけではなく、自信や笑顔まで手に入れている。そんなキラキラした様を、視聴者に見せる。
「整形をするとスゴイことが起きちゃう、生まれ変われる方法なんだ」
という、刷りこみを深めている原因にもなっていそうです。
「自信も持てて、明るくなって、コンプレックスが全部なくなりました。整形のおかげで幸せです!」
そう言っている人を画面越しにみかけますが、ちょっとフェイクが入っているのでは?
整形をするだけで、そう簡単に変われるのでしょうか。
美容整形に700万円投資して気がついたツラい現実
メディアでみかける、整形をして生まれ変わった人たち。いや、生まれ変わってみえる人たち。
実際、あんな風にはならない
整形しても普通な容姿の人もいる
整形しても、悩みは解決できるとは限らない
ということは、実際に整形してみないと理解できないことだと思います。1度や、2度だけの話ではなく。
私は「整形すれば生まれ変われる」という幻想を、整形をしてもなくせずにいました。次こそは、次こそは......と。「次こそは存在しない」と気がついたのは、顔面に700万円課金したあたり。
整形をして顔を変えた私が感じる、リアルな話しをしましょう。
整形で格差を埋めることは可能ですが、上層に入れるのは「選ばれしもの」だけ。低層から中層になるには、大金を積めばいける。でも、上層はむずかしいのです。
神が本気で作った人には敵わない劣等感は、整形で顔を変えても感じるでしょう。しかも、整形経験者の中でも格差はあります。目と鼻をいじるだけで、驚くくらいの美人になる人がいるんです。
この差は、一体なにか。
「生まれつきの顔」です。
整形は加点方式です。例えば、生まれつき顔が整っていている人がいて、容姿ポイントが60点だったとする。整形をすれば、80、90点と高得点をえられます。
いっぽう、ブサイクで生まれた私の容姿ポイントは、−30点くらいとしておきましょう。
目は重たい一重、鼻は陥没しているほど低く、豚っぱな。歯並びも悪く、野球のホームベース代わりになるくらい顔が大きい。
いい感じの仲になっていた男性の肩にもたれて甘えたら、「アゴが刺さって痛い」と言われるくらい大きいアゴの持ち主でした。
そんな顔だったので、頑張って整形をしてもせいぜい50点くらい(?) しかも、人の顔は変えられる限界値がありますので、80、90点を目指すのはまぁ、むずかしい。
美醜格差は生まれながらにしてあり、整形をしたとしても、その格差は埋まりきらない。
どうにもならない現実に、時折骨がきしむような痛みを感じている次第です。
▲整形に700万円かけても美人になれなかった、理想には届かなかった、という話はこの記事でしています
美醜の生き辛さをなくすには「他者のために生きる」がカギ
整形に奮闘していた10代後半〜20代前半は、容姿のコンプレックスに潰される毎日でした。
そして「顔を変える」だけが目標でした。やることは整形。趣味は整形。そのために働き、生きている。
なぜか「ブサイクな私の顔は、絶対に変えなければならない」という、絶対的な使命感もあったのです。
その頃から比べると、骨まで変えて整形をやりきったせいか、歳をとったせいか、諦めもあるせいか。容姿の囚われ感は薄れました。でも、ゼロではありません。
整形をして、可愛くなった人をツイッターでみかければ「可愛いな、私もそうなりたい」と憧れたり。美人を目の前にすると、劣等感が刺激されるのと同時に、整形したいスイッチもONになる。
整形したって「キレイなあの人」になれるわけがないと分かっているのに、「もう少しキレイになれるかも」と期待を胸に、いつの日か整形するかもしれないからと、美容外科へ足を運ぶ日も。
未練タラタラの中、「容姿への囚われ感が薄れるカギ」を見つけました。
他者のために生きることです。
「他者のために生きる」と聞くと、綺麗事だと感じるかもしれません。
正しく認識してもらいたいのですが、「他者のために生きる」とは、自分のことを後回しにして、ボランティア精神で他人のために尽くしながら生きることではありません。
他者のために生きるとは? 他者のことを考え時間を費やすこと
他者のために生きるとは、どういうことでしょうか。
もっと噛み砕くと「他者のことを考え、時間を費やすこと」を指します。
例えば、
- 仕事をする
- 容姿以外で自分の価値を見出す
- パートナー、家族、友人を大切にする
- 何かのコミュニティーに属する
など。
仕事は生活のためにする。それもそうなのですが、私は他者のためにあると思っています。
仕事をして、報酬を得て、生活をする。でも、その報酬は、他者のために役立った対価です。ライターの仕事で言えば「ペルソナ」と呼ばれる、たった1人の読者を意識して書きます。
もちろん、この記事もそう。
次に「容姿以外で自分の価値を見出す」をなぜ入れたのか。
- 孤独な環境
- 自己肯定感や自己評価が低い
- 容姿に対するトラウマがある
- 無条件に他人から受け入れてもらった経験がない
こうした条件がそろうと、容姿の囚われ感が強くなり、整形ばかり考えやすくなります。整形ばかりしていた過去の私の話なのですが。
容姿さえ美しければ、
自分を好きになり、認められるのではないか
自信がつくのではないか
他者に認めてもらえるのではないか
という、期待を持ってしまう。
整形が自分を認められるきっかけになれば、それでいいのです。
でも、うまくいかないこともあるでしょう。私はいくら整形しても、自分を認められませんでした。
考えてみれば、本当にほしいのは、容姿の美しさではない。「私はどんな姿でも生きていていい」という感覚なように思います。
それを得るためには、「容姿以外で自分の価値を見出す作業」が必要です。何度も言いますが、これに注力すると他者を意識せざるを得なくなります。
何が得意ですか?
何ならできそうですか?
誰にも負けないくらい好きなことはありますか?
私は「文章を書くこと」でした。
文章を書く。ただ書くのではなく「たった1人の誰か」を思い浮かべて書く。そうすればどんな文章も、他者のためになる。
アメブロで日記を書く、ツイッターで呟く。読んでくれた方の暇つぶしになったり「ほほぅ」と思わせたりするのも、立派な「他者のため」です。
また、パートナー 友人 家族を大切にする。何らかのコミュニティーに属すのも、他者とのコミュニケーションが必須です。
別に、ボランティアをしろと言っているわけではありません。
誰かと深く関わりあう努力をしたり、コミュニティーに属して何かを楽しむのも、すべて「他者のために生きる」なのです。
「他者のために生きる」は美醜格差の辛さを一時的に忘れられる
とはいっても、容姿に対して悩んでいる真っ最中なら「他者のために生きる」は難しいと思います。
容姿のことで精一杯なら、他者を思う余裕はないはず。落ち込んでいる時に、他人に優しくできないのと同じ。自分の問題が解決してから、やっと他者を気にかける余裕がもてるもの。
でも、容姿の問題はそう簡単には解決しない。解決しない悩みもある。だからこそ、整形をしても、心にシコリが残ったりするわけです。
であれば、一時的にでも悩みを紛らわさないと、潰れます。そのために役立つのが「他者のために生きる」なんです。
「他者のために生きる」を実行する最大のメリットは、美醜格差のどうしようもない辛さを一時的に忘れられることにあります。
容姿に悩む人の頭の中は、多分こんな感じ。
- 顔のここが嫌だから整形しなきゃ
- まだ太っているから痩せないと
- もっと美人だったら人生うまくいくはずだ
- 今よりも可愛かったら恋愛も結婚もうまくいくのに
- なんでこんなブサイクに生まれてきてしまったんだろう
- いつか私をブスだと言った人たちを見返してやる......
これは、自分に対して過剰に意識が向いている状態。「他者のために生きる」を実行すると、はずせます。
過去の私もそうだったので、容姿に悩む状態を「悪いこと」だとは言いません。自分の問題を解決するために、向きあっているわけですから。
でも、自分の醜さを考え続けるのはツラいですよね。
「なぜこんな姿に生まれたのだろう」と、悩んでも仕方のないことを考えるのもツラい。両親に対して「なぜ私や僕をこんな風に産んだのか」と、攻めるのも。
容姿へのトラウマを植えつけられた人たちを、恨み続けるのも。
どうでしょう、考えるだけで落ち込んできませんか。そろそろ、容姿から視線をはずしてみませんか。
何かに熱中していると、あっという間に時間が経っていた。さっきまで悩んでいたのに忘れていた、ということはないでしょうか。
これが、美醜格差からくる行き場のない悩みを忘れる、理想的な方法だと思うのです。
仕事への注力が癒しになった
容姿の囚われ感が減ってきた理由は、はっきりと分かっています。
仕事です。
私の仕事は3つの軸があります。
- 海外専門のメディア運営
- ブログ運営
- ツイッター
私のような職種は、とくに他者を意識する必要があります。
海外専門のメディアのコンセプトは、海外に行きたい女性を応援すること。そんな女性は、なにに悩んでいるのか、など。
今書いているこの記事も、構成を考えるのに時間がかかりました。
別の構成で書いていましたが「なんか違う」となり、やり直して今の記事になりました。読みにくい、わかりにくいのは読んでくれる方に失礼です。
というように、仕事(他者)のことを考えていると、あっという間に1日が終わる。
容姿を気にする時間が、仕事について考える時間に変わった。それが自分に対する過剰な意識を外し、容姿への囚われ感を減らし、私自身の癒しになっているのだと思います。
仕事、楽しいですよ。
▲素敵なライター陣とともに、海外生活の様子や英語学習について情報発信している「やまとなでしこ海外LIFE」。サイトを通して、海外に行きたい女性を応援する、背中を押せるメディアにするのが目標です
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▲美醜格差の現実を描いた本です